飽くなき探究心について

2020/06/06

 読者の皆様へ。

 飽くなき探究心について考えましょう。

 先のブログで、物理学の近代の大家、『ドルトン君』を批判す

る掲載をして申し訳御座いません。彼を尊敬している人には、大

変に御不快な思いをさせてしまい、心苦しく思います。

 しかし、彼は『論文』や『学会』という場で、我を張りました

。新しい意見や発見を受け入れられず、自分自身の権威を守る為

に、新しい考え方の人を弾圧し、潰したのです。

 よく、『森を観ずして木を見る』という言葉があります。これ

の私なりの解釈は、学問でいうと、学問のあらゆる分野の素養を

養わずに、細部ばかり見ていると、新しい物事に気付けない事だ

と考えます。

 例えば、言語学に精通している学者は、数学に精通している人

もいれば、全く数学を理解出来ない人もいます。天才は、あらゆ

る分野に興味を持ち探究します。

 国の方には失礼ですが、ドルトン君は原子を発見したのか、想

像力を働かせて理論付けたのか知りませんが、その先を見ようと

しなかった方だと思います。

 当時の物質の最小単位が原子だったのか判りませんが、現在は

違いますよね。存在は、議論中です、誰もその姿を見た事が無

いから、未知の存在です。または、実験にて、何らかのデータが

得られて『存在が確認された』というのも早計だと考えます。

 何か、もっと他の存在かも知れませんし、データ計測ミスの可

能性があるからです。日本国には、『十中八九』という言葉があ

ります。要するに、100%の計測結果など不可能ですので、

80%~90%の可能性で正しければ、正解としようという事で

す。

 実際に、誤差や近似値で、人間世界は成り立っています。

 今の地球科学の物質の最小単位は、色々と言われていますが、

それが確かかは未だ疑わしいと考えます。質量が無いと言われて

いた物質にも、微量の質量が存在すると発表した方々がおられま

す。しかし、それも『十中八九』なのではないか。

 とにかく、大宇宙∞は無限∞なので、何が存在していて、存在

していないか、未知なのです。

                 2020年6月6日 著者